2018W杯予選・日本vsポーランドで面白かったところ

はじめに

 日本時間で昨夜から今日にかけて行われた2018ワールドカップ予選・日本vsポーランドの試合は、最終的に0-1で日本が敗れる結果となりましたが、セネガルと勝ち点や得失点差、総得点数などで並んだ結果、フェアプレーポイントの差により日本が決勝トーナメント進出となりました。

 終盤には同時に行われていたセネガルvsコロンビア戦がコロンビアリードで進行していることを受け、両試合がこのままのスコアで行けば日本が予選抜けとなる状況になっていました。その結果、日本は攻める様子を見せず最終ライン付近でボールを回し時間が切れるのを待つ戦術を取り、そのことが話題となっています。

 私もこの試合をリアルタイムで視聴していたわけですが、善悪を超えてここにエンターテイメントがあるということを感じて一人でかなり盛り上がっていました。時間つぶしが倫理的に良かったかどうか、あるいは戦略的に最善であったかどうかには触れず、ここからはこの時間つぶしに感じたエンタメ性についてできるだけ言語化していきたいと思います。

 私が感じたエンタメ性はおおむね以下の2点となります。

  • 大舞台で行われる博打に漂う強い感情
  • ファンの祈りと転倒

 この2点について詳しく書いていきます。

博打と強い感情

 先ほど「両試合がこのままのスコアで行けば」と書いた通り、時間つぶしの戦略を取った時点で予選抜けの命運は日本の手から離れました。全てはセネガルvsコロンビアの戦いがどうなるかに委ねられ、これは大きな博打であったと思います。

 まず一つ目のエンタメ性は単純に大博打がこの大舞台で行われたという事実で、私は長谷部投入からの明確な意思表示を観て「よくやるなぁ!」と感じたものです。

 そしてこの博打は、セネガルとコロンビアの力量を鑑みての冷静な選択とする向きもありますが、個人的には感情的に行われたものであったと想定したいところです。「このままいけば予選抜け」の文字が頭の中で踊り、その抗いがたい魅力に憑りつかれた結果の産物として考えたいわけです。

 そこにあった強い感情を私は勝手に想像して楽しむことができます。実際どうだったのかはわかりません。理屈も何もかも跳ね飛ばす執心は「どうしても予選抜けしたかった」というような言葉にした瞬間陳腐なものとなってしまいます。後から冷静に振り返るのではなく、すぐに決断を迫られるあの瞬間における強い感情。そのようなものを(錯覚だとしても)予測させるものは、エンターテイメント以外の何物でもないと考えます。

祈りの転倒

 もう一点はファンが期待する構造におけるものです。我々ファンが(少なくとも私が)できることは応援だけであり、現地で声援を送るわけでもなくテレビ、パソコンの前にいるだけともなれば、本質的にこの応援は無力です。こうした無力感と共にある願望を、私は祈りと呼んでいます。

 祈りの根底に無力感がありますが、しかしそんな中でも「こうあって欲しいな」という形が実現することに、いくらかの希望があると思うのです。祈りが本質的に無力であることを知りつつ、しかしその有効性を錯覚したいという願望が少なくとも私の中には存在しています。ワールドカップにおいて「我々の祈りの結果選手たちが奮闘し良い結果を得る」という物語を期待する点が私の中に無かったとは思えません。

 しかし結果的には祈りの対象であるところの選手(監督)が、他チームの結果を祈り始めるという転倒が発生しました。選手たちは他チームの同士の戦いに対して介入できるわけではないため、やはりそこにあったのは確かに祈りとしか言えないものでした。こうした祈りの空転に私は非常に強いエンタメ性を感じざるを得ません。

 これは「選手たちは頑張ったが、結果は良くなかった」というような祈りの失敗とは性質が異なります。むしろ祈りの構造が暴かれたような状況であると感じます。物事が上手くいく、あるいはいかないという地平においてサスペンス性を期待していた状況であったのに、そこに待っていたのはその期待を抱える気持ち自体を暴き立てる仕組みでした。考えもしなかった方向から面白さが開かれていく、これは上質なエンターテイメントだと感じます。

終わりに

 もう一点エンタメ性として付け加えるとすれば、日本代表が弱さ、特に自信のなさを見せたことそのものでしょうか。彼らは結局、自身の点を取りきる攻撃力や、カウンターを防ぎきる防御力を信じませんでした。ここまでコロンビア戦では運を味方につけたようなところもありましたが、セネガル戦では非常に良い戦いを行っており、どこか普段と違うような日本代表の姿に感じられていました。安易にこのようなことを言って良いのかわかりませんが、ここにきて弱さを見せるところに、肩すかし感があったと同時に何かしらの親近感があったことも確かだと思います。

 繰り返しますが、私は時間つぶしという行為が倫理的にどうであったかや、戦略的に正しかったかどうかについてはあまり興味がありません。私にとって重要なことは、あのシーンを観て精神が昂った原因がどこにあるのか、あのシーンにおけるエンターテイメント性とはなんなのか、ということでした。

 少しでも良い言語化をしたいと思って記事を書いてみましたが、そこまで成功しているとも思えていません。この先もいくらか意見が変わることもあるでしょう。しかしあの瞬間に感じた精神の高揚だけは確かなものであり、スポーツ観戦が紛れもないエンターテイメントであることは再度強く感じることとなりました。このような機会を与えてくれた日本代表に感謝し、また決勝トーナメントにおける活躍も祈りつつ、この記事を締めさせていただきます。