虚構キャラクターに向き合うこと

 先日の記事で、プレイヤーの選択を伴うゲームのうちいくらかは「虚構世界・キャラクターに対して真剣に向き合っているか?」という問いを発するものなのではないかと書いた。つまり我々が現実世界においては行わないようなことを虚構に対しては簡単にしてしまうことは、何かしら虚構を軽んじる態度の現れなのではないかという指摘だ。読者の「所詮虚構だし」といったニヒルな態度を突き崩していくための仕掛けとして用いられることがあると認識している。

 これは確かに重要なテーマであり、物語を単なる虚構と切り捨てていった先に大きな感動があるとは思えない。やはり読者は虚構世界をそれなりに重く受け止め、虚構世界なりに存在する流れ・秩序といったものを感じ取ることが、より面白い読解に繋がるだろう。そのことを指摘することはそれ自体に大きな意味があると感じられる。

 しかし、ここで誤解を避けるために強調したいことがある。虚構世界に対して真剣に向きあうこととは、決して虚構世界は現実世界と同じように確固たるものとして存在し、虚構キャラクターはまるで現実世界の人間と同じように存在しているのだと主張するのではないということだ。これは大きな違いである。我々は虚構のことを、まるで現実のようなものとして考えなければ重大なものとして扱えないのだろうか。そんなことはないだろう、というのが筆者の思うところである。

 虚構キャラクターが我々とは様式が全く異なった存在だったとして、それ自体が重要性を損なうことは全くないと考える。さらに言えば、そのような存在に対してとも愛を結ぶことができると考える。それはたとえば人間と動物では能力や世界の認識そのものが大きく違うにもかかわらず愛を結ぶことが―少なくとも何かしらの形で―できることと同じである。

 強引な理屈かもしれない。論理などなく、ただそうあって欲しいという願望でしかない。しかし、虚構の良いところはある意味で現実と違うところであり、なおかつ価値としての重大さは現実と同等かそれ以上にあるという二重性にあるのだと思っている。

 この「虚構キャラクターを虚構的な存在として扱ったまま愛を結ぶことができるか?」というテーマに挑んだ作品は、筆者の少ない作品鑑賞体験の中でもいくらか見られるものである。それはたとえばDoki Doki Literature Club!であり、One Shotであり、異セカイ系である。いずれも虚構における愛について、真剣に扱った作品だ。興味が惹かれればぜひ手に取ってみて欲しい。

 冒頭で述べたような指摘というのは、しばしばバッドエンドの形を伴って現れる。プレイヤーの軽々しい選択に対してお灸をすえるような形になる。もちろんそれも楽しい体験だろうが、やはり私は愛の、幸福な物語が好きだ。我々は弱く、迷いやすい存在であるから、時に厳しい結末が必要になるのかもしれないが、現実と虚構の間に多くの愛が実ることを祈って本稿を締めさせていただく。