読書メモ 西田洋平『人間非機械論』

 西田洋平『人間非機械論 サイバネティクスが開く未来』

 著者多数『未来社会と「意味」の境界: 記号創発システム論/ネオ・サイバネティクスプラグマティズム

を読み、面白かったので記録を残しておく。主に前者の本についてがメインで、部分的に後者を参照する。それぞれ有料の本なので、内容をまとめるということはしない。読んで浮かんだ疑問点・所感などを残す。興味がある人は買って読んでください。

面白かった点

 テクニカルな面として、相互再帰によって無限退行を解消できるという話は面白い。単なる再帰よりも性質的に良い点がどれくらい出てくるのだろうか。これは元論文とか、もっとの他の参考資料を辿らないとわからなさそう。場合によってはいろいろ応用が利く概念なのかもしれない。

 観測者の再帰性、あるいは説明の円環あたりも、完全に納得できているわけではないがそれらしい気もする。モデル化の中に自分を含めるかどうかというのは大きな差異になりそう。主観的な知覚刺激の中からどうやってそれを学習するのか。不思議だ。

 あとはHACSの階層性の見出し方は感触の良さを感じる。

(1) オートポイエーシスがどこまで成立するのかよくわからない

 細胞が、タンパク質等を構成素(正確には構造らしいが)オートポイエティック・システムであるというのは納得感がある(生物学について詳しくないので機序を説明せよと言われたら全く自信はないが)。また、生物個体が細胞を構成素とするオートポイエティック・システムであるというのも納得できる。

 一方で神経システムがオートポイエティック・システムであるのかどうかは(書内でも注意書きがあったように)、すぐにはよくわからない。構成素としてはやはり細胞レベルのものを考えるのか、それとも抽象的な神経ネットワーク的なものを考えるのだろうか。また心的システムがオートポイエティック・システムであるかどうかもさらによくわからない。構成素が何に相当するのか、あまり見当がつかない。

 HACSを前提とすると全て構成素はコミュニケーションになるはずなのだろうか。抽象度がかなり高まり、解釈にブレが生じてしまいそうな気がする。会議の例はわかりやすいが、その他に自分で応用して考えてみようとすると恣意的になんでも当てはめてしまうか、全然当てはめられないか、ということになる。

 工学的に、細胞レベルでオートポイエーシスを再現するのは難しそうなので、一歩抽象的な段階で実現できるかどうかというのが争点になりそうだというのはわかる(未来社会と「意味」の境界 第3章)。が、上の通り、それがオートポイエティック・システムなのかどうかそもそもよくわからないので、目指すべきものなのかも不明。正直、工学レベルとしては、とても複雑なノン・トリビアルマシンであるか、オートポイエティックなシステムであるか、という区別にはあまり意味がないのではないか、という方に同意したい。

(2) 性質は明確な違いがあるのか

 オートポイエーシスについても、閉鎖性・自律性についても、非連続な変化というよりも中間を考えたくなった。オートポイエティックである/ないといったものが、完全に非連続的な2つの極であると、応用を考えにくい気がする。

 たとえば、生物も無限に生きられるわけじゃないのでオートポイエーシスも完全な形式では成立していない。なので、オートポイエーシスが成立する時間的長さがあるわけで、それが十分に長いと生物っぽく見えるが、成立時間を徐々に短くしていくとどこかで非生物へ切り替わる瞬間が生じるだろうか。そのオートポイエーシスが成り立つ時間の長さで「オートポイエーシスらしさ」を連続的に考えたくなる。

 閉鎖性・自律性についても、結局構造は外部とやり取りするというのを考えて、どの程度意味が構造的になった情報を受け取るかというのは段階があるのではないかという気がした。「自律性」という言葉を身近なレベルで捉えて卑近な例を考えると

  • 手取り足取り全て教えなければいけない
  • 言葉でやってほしいことを伝えるだけで良い
  • なにも言わずにやる

などの段階が考えられる。相互作用(入力)される情報がリッチであるか、そういう連続的な段階で自律性を考えられないか、とは思った。

 入力から情報を希薄化していく。有益な情報自体も自分で獲得してくださいとなる。それは結局表現学習の一つでしかないということになってしまうか。

その他

 結局こういう考えを知って、では工学的にどうしますかというと、別にそこまでやることは変わらなくて、ある程度妥当そうなモデルを考えてあとは性能次第、というようにも感じる。その「妥当そうなモデル」が厳密な確率的生成モデルになるのか、ちょっと妥協していろいろ近似の入ったニューラルネットワークいろいろになるのかはよくわからないが。

 全然別の方向性としては、ライフゲーム的なものが超高度に進歩して、外界とも接点を持ち、かつ、意味があると錯覚するような振る舞いをできるようになると、それはオートポイエティックなシステムだしハッピー、ということになる道もあるのだろうか。やっぱりそのレベルのオートポイエーシス性は別にあまり興味ないなぁとは思ってしまう。